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フィレンツェ・ルネッサンスの黄金期を作ったロレンツォは、結婚する直前、二十歳のとき、独身時代の最後の華を感じるために、サンタ・クローチェ教会の前の広場で馬上槍試合を行った。

 

ロレンツォはフィレンツェの統治者として期待され、教養豊かな教育を受けつつも、華やかに遊び、多くの恋愛も楽しんでいた。「ガイア・ブリカータ」という年上貴族の子弟と中心とした集団を作り、派手な格好をして宮廷的な恋愛遊戯などを楽しむ遊興を行ったりもした。因みにその集団に若きボッティチェリも参加している。

このように厳格さと快楽主義の二面性を持つのがロレンツォの特徴だ。

 そしてその華やかな独身時代に一区切りをつけたのが、ローマの貴族の娘との結婚である。

父の代までフィレンツェの中の高貴な身分のモノとの結婚はしたことはあったが、ローマ貴族と関係を持つことはメディチ家の統治者としての説得力を高める切望されるものであった。しかし、その縁組の話はロレンツォの母親が一方的に持ってきたものだった。

その貴族の娘は決して明るくて華やかな人ではなく、少々影のある女性でもあった。そのため、華やかな生活を楽しんでいるロレンツォにとっては、かならずしも前向きではなく、遊びを一区切りつけなければならないイベントでもあった。

そこで盛大に行ったのが独身時代最後の馬上槍試合なのである。

後々に名を残すことになる芸術家が続出することとなるヴェロッキオ工房がその演出のプロデュースに大きく関わった。その時のヴェロッキオ工房には、ダ・ヴィンチ、ペルジーノ、ボッティチェリが在籍している。

そして、プラトニックな想い人・ルクレイツィアに馬上槍試合の優勝者としてロレンツォは祝福され、このイベントは最高潮に盛り上がるのだ。

この後、結婚と父の死が同時にきて、ロレンツォはフィレンツェの実質的な統治者となる。

表の顔では華やかな演出を行い。裏では反対する者には容赦ない粛正を行う。

この二面性によって、黄金期が作れていくのだ。

しかし、ロレンツォが亡くなった後、この華やかさが仇となり、厳格主義者の修道士サヴォナローラがメディチ家のフィレンツェ追放を行う事になるのだが、、、。

しかも、サヴォナローラはメディチが買い上げた修道院の長に着任していた修道士でもあるという皮肉な感じな要素が重なる(ただ、当時にこのサンマルコ修道院ではサヴォナローラ着任時と時をほぼ同時にしてミケランジェロの才能がロレンツォに見出される場所でもある。)。

 ルネッサンス芸術の黄金期のフィレンツェを作ったとも言われる“ロレンツォ・デ・メディチ”、またの名を「豪華王」と呼ばれた人。

 といっても、意外と直接フィレンツェで花開いた歴史に残る芸術作品に直接パトロンとして関わった作品は少ないようです。

 ボッティチェリの名画『プリマヴェーラ』も直接は関わっていないようです。

 特に建築においては、祖父コジモは積極的にパトロンとなったものの、ロレンツォが建築のパトロンとなった数は少ないようです(というもののないわけではなくミケロッツォなどや別荘の建築などはあります。またロレンツォは建築に非常に精通していました。

 ただ有名な芸術家と関わっていないかというとそうでもなく、ボッティチェリやベロッキオやペルジーノなど結構関わっているものの、作品を彼らに発注する事よりも、彼らが活躍できる場所に推薦して派遣する活動に重点が置かれたようです。

 では、なぜ直接的な関りよりも、推薦など間接的な支援がメインだったのか?

 それは、ロレンツォがフィレンツェの実質的な統治者として着任した頃には、資金源であったメディチ銀行の経営に陰りが見え始め、ロレンツォがなくなるときには多大な借金まみれになる程、ロレンツォには資金がなかったことに起因するようです(銀行経営に精通していた祖父コジモの時代は大幅な黒字で多くの建築などに資金を出してパトロン活動ができた)。

 祖父コジモまでの時代は、メディチ家の権威はまだ確たるものでなかったため、銀行経営に勢力を出しつつ、その資金で権威を固めていくという活動をしなくてはなりませんでした。

 しかし、父ピエロあたりからほぼ実質的な統治者の道が約束されており、経営者としてよりも貴族的な教育が重要視されるようになっていたのです。特に祖父コジモが権威を高めるために作り上げたアカデミックなサークルでは、実利よりも理想を掲げるプラトン主義などが流行っていて、そのためロレンツォには王となる教育を施し、銀行経営はその道に長けたサセッティに任せるようにしたようです。

 ただ、周りの国と銀行による関りによって外交を強化したロレンツォの方針もあり、いままで厳格にしていた国の王などにお金を貸す投資の禁止を緩め、フランスなど多くの国で踏み倒される事件が続出し銀行経営は傾いていきます(またサセッティ自身も実利だけでなく権威を求めるようになり、礼拝堂やアカデミーに傾倒してくなどもありました)。

 そして、ロレンツォ自身も、外交では反対する者は容赦なく粛清し、金に糸目をつけず自国の商人が安泰になるために明礬の鉱掘権を獲得するなど、自身の支持を確固とするために赤字覚悟で政治を行ってきました(1471年ヴォルテッラ暴動事件など)。

 つまり、ロレンツォの政治はロレンツォの人格と外交を均衡するバランス感覚があったからできたものであり、逆に言うとロレンツォでなくはできないような政治に体制にもなっていたようです。

 ですから、確かに判断力なども欠けていたのはあるのでしょうが、ロレンツォの死後、後継者となったピエロは多くの借金を引き継ぎ、その借金問題で周りの諸国とひと悶着が起こり、更に今までなかった未曽有の自体フランスのイタリア侵入を迎えるなど、到底並みの人ではどうにもならない試練に立たされることになったのです。

 でも、そんなロレンツォだったからこそ、彼の人生とそれに関わった人々を調べると非常にその時代が分かるキーマンとなっています。

 その辺を踏まえWikipedia の記事を大幅に加筆(2020.6月)したので、もしよかったらそれを踏まえてロレンツォを分析してみてください。

Wikipedia「ロレンツォ」はこちらをクリック。

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